次は「設計者」がリードする、「第二次工芸建築」/vol.6 陶芸家・中村卓夫氏 インタビュー

浦建築研究所のミッションステートメント「共に、築く」。こちらのコラムでは、私たちとプロジェクトを共にしてくださっている方々へのインタビューもご紹介していきます。

第6回は、陶芸家・中村卓夫さん。中村さんは「ベルリン国立アジア美術館」に設置された「忘機庵―ゆらぎの茶室」にコンセプト段階から参画くださっており、「工芸建築」を語る上で欠かせない人物の一人です。茶室は多方面から高い評価を受ける一方、「あれは“第一次工芸建築”のひとつの集大成であって、私たちは次なるステージへ工芸建築を進めねばならない」と中村さんは語ります。従来の「かたち」に囚われない、次なる工芸建築の在り方とは。

<Profile>
中村卓夫 /金沢に三代続く工房の次男に生まれる。父・梅山が展開した金沢風”琳派”に新たな解釈を加え、1991年和光ホールの第1回個展に”ぎりぎりうつわ”シリーズを発表、以来 “うつわ”と空間の関係領域の拡張を展開している。2010年、第一回金沢・世界工芸トリエンナーレ、2012年、Designing Nature The Rinpa Aesthetic in Japanese Art( N.Yメトロポリタン美術館)。2017年、「革新の工芸”伝統と前衛”、そして現代」(東京国立近代美館工芸館)。金沢21世紀美術館・東京国立近代美術館工芸館・NYメトロポリタン美術館(パーマネント2点)他に収蔵。2019年、ベルリン国立アジア美術館の茶室設計コンペに工芸建築メンバーの一員として設計に参画。「ゆらぎの茶室」が最優秀案に選定される。

「第一次工芸建築」の集大成としての茶室

──2022年に「ベルリン国立アジア美術館」における「ゆらぎの茶室」が完成しました。中村さんが現地を訪れて、実際にご覧になってみていかがでしたか?

中村:あの茶室に座った時、「とんでもないものを作ったんだな」と。私たち作家や設計者が想像していたより遥か先を、あの空間は体現していました。要するにこれまで「工芸建築」というデザインに主体があったわけですが、完成した時点で“カタチの話”は超越してしまっていた。涙が出るくらいに、いい仕事をしてくれたと思いましたね。

「忘機庵―ゆらぎの茶室」

中村:「ゆらぎの茶室」は、言うなれば「金沢まち・ひと会議」で散々議論し合った一つの帰結というか、間違いなく“第一次工芸建築”の集大成と言えるものでしょう。しかし、これはもう完成してしまった。これと同じ解釈を続けていけば「工芸建築」が進化していくのかというと、それはまた違うと思う。

 

今回インタビューのお話をいただいた時も、当初は「ゆらぎの茶室」におけるコンセプトをお話しして、それらしく収まりの良い工芸建築論を展開しようと思っていたんです。けれど、それだと「工芸建築は“デザインの話”」ということになってしまいかねません。私たちはもう「次なる工芸建築」を目指さなくてはならないんです。これが今日一番お話したかったテーマです。

新たな「ステージ」からつくる必要性

──達成感に浸る間も無く、もう次へと気持ちが向かわれているのですね。中村さんを「次なる工芸建築」へと急き立てるものは何なのでしょうか。

中村:ひとつには、もう「デザインの問題」では解決しないところまで、建築或いは生活空間というものがきている、という状況があると思っています。建築全体を「うつわ」だと言い出したのは僕なんだけれど、その「うつわ」のカタチが、今崩れてきている。

そもそも僕ら工芸家がこれまでものを作れてきたのは、日本家屋が「様式化」していたからです。床の間があり、付書院があり、大きさもデザインも「ここにはいつ・何を飾る」ということまで様式が決定していたから、そこに合わせて僕らはものを考えられていた。
けれど今、日本家屋そのものが失われてしまいました。床の間はもちろん、リビングと応接間の境界すら無くなった。「お客様を迎える」ということが、日常の中にそのまま入り込んできて、「リビングでテレビを前にお茶を飲む」という状況です。それを時代が良しとするのなら構いませんが、その代わりに「工芸作家」という職種はもう完全に廃業せざるをえなくなるでしょう。
今よく「アート化する工芸」という言い方をされますが、逆に言えば「現代において工芸はアート化せざるをえない」のです。何もないホワイトキューブの中では「個人の表現」としての作品を出すしかないのですから。

次の工芸建築をリードするのは「設計者」

──「工芸建築」の議論の前に、その前提となるフィールドが崩れてしまっているということですね。

中村:そうです。そこに何らかの文化を加えたいのなら、まず新たなフィールド作りから始めなければなりません。そして、手短に結論をいってしまうなら、それをリードしていくのは「設計者」だと、僕は確信しています。

──「設計者」ですか。これまでの「工芸建築」はどちらかというと「工芸家」の方にイニシアティブがある印象でした。工芸家の発想を、設計者がスケールアップするというか。

中村:確かにこれまではそうだったと思います。歴史なり伝統なりを背負っている分、「工芸」の方が「感性がひとつ上にある」というかね。しかし「じゃあ工芸家が次の建築をつくれるの?」と問われたら、そりゃ無理な話です。従来の様式の中ならなんとかやれたかもしれないけれど、先ほどお話したように、もう全部なくなって「ほぼゼロからつくる」状態です。それができるのは、全体を俯瞰的に見渡せている「設計者」の他いないだろうと。

もっと言うなら、ハードだけでなく「新しい生活様式を提案する」ところまで設計者には担っていってもらいたいと僕は願っています。もちろん設計者の仕事には「施主の意向を酌まないといけない」という前提があるわけですが「だから思い通りのことはできない」と言うのは違うと思う。
施主は「生活を盾」に色々言いますが「設計のプロ」ではないわけで、施主の意見に丸々応えていては、良い建築はできていかないのではないか。社会的な意味も含めて、設計者が新しい様式をリードしていく必要があると思うのです。

背後に見えるのは、「床の間」がない今の時代、“器としての床の間”を表現した中村さんの作品

素材の「新解釈」への挑戦

中村:そして次に「素材の問題」。「ゆらぎの茶室」で僕らが使用した素材は「土壁/漆/焼物/紙」といった自然素材が中心でした。「自然由来・工芸由来の素材を使ったものが工芸建築だ」とするならば、木造のお寺だって何だって「工芸建築」になって見境がなくなってしまいます。
加えて、「自然由来の素材に将来の建築を委ねる」ということには、もう明らかに無理がありそうです。お金持ちがつくる「数寄屋」ならそれで良いのかも知れませんが、コストはひたすら高くなる。

一方で、私たちの身の回りに目を向けると、手ごろな価格で安定的に手に入る「工業素材」に溢れています。これを使わない手はないのではないか。そもそも焼物にしろ砂壁にしろ、元々「工芸建築」のために生まれた素材ではなく、そもそもは「身近にあった建材」だったわけです。たまさかそこにあるもので、「どうしたら美しく見えるか」とそれぞれの特性を生かしながら職人達が知恵を絞ってきた。
そういう意味では「現代の建材」と「伝統的な自然素材」のどこに違いがあるのだろうと。僕たちは「工業製品」というだけで、「工芸より見劣りするモノ」として一段低く見てしまっているけれど、果たしてそれらを「素材」として吟味してきただろうか?自然素材へ逃げるのではなく、昔の職人達がやってきた挑戦を、僕らは今の工業素材でやってみないといけないのではないかと考えています。

「工業素材」を「工芸素材」へ

──従来の工芸建築では「自然素材であるか」「伝統技法であるか」といったことが問われていたと思うので、「工業素材で工芸建築をつくる」という発想の飛躍にまず驚いています。

中村:そんなにこれは荒唐無稽な話なのでしょうか?実際に、その“成功例”をご覧いただける場所が県内にあります。その一つが安藤忠雄氏が設計した「西田幾多郎記念哲学館」です。鉄の壁面に亜鉛メッキの表面処理が施されていて、その不規則なテクスチャーは様々な感じ入り方ができるような表情がある。まさに漆に匹敵するような説得力ある素材感を、亜鉛メッキという塗料が生み出しているんです。これはもう「新しい工芸素材」と言えるのではないでしょうか。

また、ここで得たもうひとつの気づきが「安藤忠雄氏はコンクリートを“工芸的素材”として解釈していたのではないか」ということ。従来は鉄筋とともに構造を支える頑丈な「工業建材」に過ぎなかったコンクリートを、小さなピットの位置ひとつにまでこだわって表現した。そういう意味で、安藤氏はコンクリートの表現する素材感に着目した世界最初の作家と言えるのかもしれない。あのスケールで“工芸建築”が実現できているということはひとつ希望になると思うのです。

安藤忠雄氏が設計した西田幾多郎記念哲学館(画像提供:石川県観光連盟)
亜鉛メッキを施したアルミの外壁
コンクリートの「素材感」に着目した建築(画像提供:石川県観光連盟)

「失われたものの集積」をあとにして

──第一次工芸建築の集大成としての「茶室」は、まさに建築における「聖域」というか、経済性の論理に晒されない象徴的な建築だったと思います。ただ、工芸建築はもうそこに安住していてはいけない、ということでしょうか。

中村:そうです。かつて茶室のような本物志向の世界観を「オーセンティック」という言い方で表現した時代もあったけれど、それは「すでに失われたもの」の集積です。そこにノスタルジックな情緒はあっても、その先に何か新しいものが生まれてくるだろうかと。今は「建築」も「うつわ」も、経済的な要素を抜きにしては物事を成し得ない時代です。工芸建築だって、その現実の只中で格闘していかなければならないはずです。

すでに「美的生活文化」が失われてしまったのなら、誰かがそれに代わる新しい文化を作らないとどうしようもない。古いものを引っ張り出していてももう通用しないのです。でないと「金沢」というものだって消滅して「ちょっと観光客が多い普通の地方都市」に成り下がるしかないでしょう。それを食い止められるのが、「設計士のあなた方ですよ」と僕は言いたいし、そこまでのシナリオがないと「工芸建築Part 2」にはなっていかないのではないかと思っています。

次なる工芸建築の方向性は「多元性」

──では、新しい工芸建築のシナリオにおいて、何が重要になってくるとお考えですか?

中村:一つには「多元性」というものが、キーワードになってくるのではないかと感じています。今盛んに言われている「多様性」は「異なるものがたくさんある」という状況ですが、そのままでは「建築」にはなっていきません。「多様性」ともまた違う「多元性」。その対極にある概念が「一元性」ですが、オブジェ的に進化した工芸は作家自身の表現という意味で一元的に完結するモノです。

僕はこの「多元性」が、次の工芸建築の方向性になっていったら面白いんじゃないかと思うんです。実は、このアイディアは「ゆらぎの茶室」から得たもので。僕があの茶室で一番感動したのは陶板の床でも漆壁でもなく、「レールのない襖」なんですよ。襖自体は一般的な襖です。けれど、これが鉄の構造物の中からスッと出てくる。いわば「ただの紙」が、重さ・強度とあらゆる面で勝っている鉄と、真っ向対峙して負けていないのです。相対するものが拮抗している緊張感と、その強烈なメッセージー…。これはもう明らかに「素材(工芸)」の問題ではなく、「デザイン(建築)」の勝利ですよ。「ひょっとしたら、ここに『次の工芸建築』があるのではないかという、直感がありました。

「忘機庵―ゆらぎの茶室」の「レールのない襖」

「異質なもの同士」が出会うチャンネル

──「第一次」を経て生まれてきたアイディア、というところが「第二次」たる所以なのでしょうね。

中村:「襖が引かれた後にレールが見えるのは嫌だ」と、僕が主張したことがきっかけではありましたが、それに対しての解決策を僕が持っていたわけじゃない。構造だとか建築のことがわからない僕ら作家が平気で好きなことを言う、それをきちんと受け止めてくれたのが「浦建築研究所」ですよ。図面はもちろん、若いスタッフさんが即模型を作ってくれて、僕らは初めて理解することができて、意匠デザインと構造の一体化がクリアできたんです。あの襖は、作家それぞれが要求するエモーショナルな部分を共有した上で、「出来ない」を飲み込んだ先に、生まれてきたものだろうと思っています。

つまり、決して一様ではないものが組み合う結果としての「多元性」。全く異質な出会いこそが、工芸建築を次なるステージへと進めてくれるのではないか。それは「ハイクオリティ感を共有し合う者同士のフラットな関係でのぶつかり合い」ともいえるかも知れない。“ぶつかり合う”というアクションの先に生まれる何か。このやり方自体は日本の伝統的な建築のつくり方として既にあったものです。棟梁がいて、職人がいて、彼らがやり合った結果として建物ができてきた。新しい工芸建築は「1 + 1」の「足し算」ではなく、職人同士の出会いによって起こる「掛け算」で成立する領域なのではないだろうか。
僕ら工芸家はもう工芸建築をリードすることはできないけれど、工芸という「素材の経験則を持った人」として「多元性」をそこに持ち込むことはできるはず。ここにおいて重要なのはその「出会いのチャンネル」を見つけることだと思っています。

西田幾多郎記念哲学館で開催された茶会。安藤忠雄氏設計の「曲壁」と「結界(一寸角の仮説)」の対峙は、「忘機庵―ゆらぎの茶室」における「鉄壁」と「襖」の関係を思わせる。(Photo:Nik van der Giesen)

「多元化」を可能にする「金沢」という装置

──異質なものが出会う「チャンネル」。そこにおいて「金沢」という土地性の働きかけは何かあるでしょうか。

中村:はい。むしろ金沢の「数寄文化」というものを前提に置いておかないと、この「新しい工芸建築論」は成立し得ないと思っています。

金沢の数寄文化における「関係性」が、すでに多元性を孕んでいます。分かりやすい例として、例えば京都。京都は公家文化ですから一番上に天皇がいて、ヒエラルキーが崩れない。そこで熟成してきた文化を街をあげて何千年単位で必死に守ってきたのが京都という街です。そこでは「改変」は根幹を揺るがしかねないので基本的に許されません。
対して金沢は明日をも知れぬ武士の文化です。平気で伝統を覆して、それを皆で面白がっちゃう。そんな時、亭主は工芸家に「こんなことできない?」と相談し、工芸家はまた新たなものを提案する。そうやって共謀・共同してつくられた物を、今度はお客さんを招いて見せるー‥。つまり工芸家は亭主に向かって仕事をしているけれど、その亭主という人は第三者を向いている。このトライアングルな関係性は、他の産地にはないものだと思います。

つくり手と使い手がひとつの街の文化を築いてきた稀有な街、それが金沢です。そう考えるとこの街から「工芸建築」が生まれたことにも説得力があるし、「Part 2」もやはりこの街から生まれるべきだろうと思うのです。

(Photo:Nik van der Giesen)

「ジャンル」ではなく「プロセス/手法」としての

──「工芸建築」は浦建築研究所としても、今後一つの柱にしていきたいと考えている重要なテーマです。最後に中村さんから、改めて設計者達へのエールがあればお願いします。

中村:「工芸建築」を浦建築研究所の一つの柱にしていくのならば、それはやっぱり「デザインの問題ではないよ」ということでしょうか。これまでの「工芸建築」において、工芸は「建築のいちデザインアイテム」と考えられていました。それはある意味で正しかったのかもしれないけど、そこから新しいものが生まれてくる気配がしないし、デザインの話で済むなら「いち建築家のコンセプト」の領域を出ないわけで。本気で「工芸建築」に取り組むのならば、「これまでなかった“もの”」ではなく、「これまでなかった“こと”」に挑戦してほしいです。「工芸建築」は「ジャンル」ではなく「プロセス/手法」になるというかね…。
なにしろ、これからは設計者が「主役」なのですから、あなた方の才能をいかんなく発揮し、リードしていただきたい。期待しています。

(取材:2023年6月)