オープンな市民活動のエンジンへ /vol.18 設計士・中川 将史

浦建築研究所をより身近に。こちらの「建築コラム」では、建築事例だけでは見えないスタッフの素顔や、社内での取り組みなどもご紹介していきます。第18回は、設計士の中川将史さんへのインタビューです。
中川さんは2025年4月に浦建築研究所に入社したばかりの若手設計士。入社面接で “あるポートフォリオ” が代表の目に留まったことが、採用の決め手になったといいます。それは市内でも動向が注目されている「日銀金沢支店 跡地」の活用をテーマとした中川さんの卒業制作で、「共に築く」そして「建築をひらく」をテーマとする浦建築研究所の方針と共鳴するような提案でした。「今こそ多くの人に見ていただきたい」という代表の想いもあり、今回は卒業制作紹介を兼ねた中川さんへのスタッフインタビューをお届けします。(※卒業制作のPDFはこちらからご覧いただけます)

設計士の中川将史(まさし)さん。小松市出身。2025年に浦建築研究所へ入社
「卒論は、一生を左右する」
──“卒制採用”といえるくらい、中川さんの卒業制作が浦代表に刺さったと聞いています。私自身拝読しながら「もうこのまま実現したらいいのに…!」と思うくらい素晴らしい提案だと感じました。
中川:ありがとうございます。そう言っていただき恐縮です。浦建築研究所の採用面接の際に、他の作品含めて4,5個持っていったんですが、断トツで「日銀跡地活用案」に反応をいただいたことは、確かに覚えています(笑)。テーマとしてタイムリーであったことが、大きかったのかなと思っていますが。
入社後も、浦代表から「日銀跡地活用案を披露してほしい」と、何度か社外の方々の前でお話させていただく機会をいただきました。そのうちに、県議の方や金沢市の都市計画課の方からもお声がけいただき、まちづくりに携わる方々の前でお話させていただいたこともありました。
──ご自身の卒論が、そこまで広まっていくとは想定されていましたか。
中川:いや、僕も驚いてます。大学の恩師である蜂谷先生が「卒論は一生を左右する」とよくおっしゃっていたんですが、本当にその通りだなと。
特に「修士論文で書いたことは、死ぬまで体現して生きていかなければならない」と先生はおっしゃっていて、もはや「呪い」だとも(笑)。つまり、それくらい自分の生き様を反映したものを書き上げなければならないし、書き上げた以上、自分を裏切ってはいけない、ということなのだと思っています。
ブロックで平面図を立ち上げていた幼少期
──卒業論文の話をうかがう前に、まずは中川さんが“建築の道”を志したきっかけをうかがえますか?
中川:はい。何か明確なきっかけがあったわけではないのですが、物心がついた頃にはもう「建築」に興味を持っていたんです。建物ができていく様子を見ているのが好きで、物の骨組みを考えたり、実際にそれを作ったりする時間が一番楽しくて。それが高じて、進路を考える時期になると「職業としては“建築家”なのかな」と自然に思っていました。
──「物心つく頃」って、だいぶ幼少期からですよね。
中川:もう4-5歳くらいからですね。一つ、象徴的なエピソードがありまして。レゴブロックってありますよね。あれで「おうちを作って」と言われたら、普通のお子さんなら屋根や壁がある「家の外観」をつくると思うのです。けれど僕は「間取り図を立ち上げた模型のようなもの」を作っていたらしいんです。
──間取りというか、「空間の使い方」までその時点で考えていたと。それはもう建築士になるべくして生まれたような…!
中川:親族に建築関係者がいるわけでもないので、不思議なのですが(笑)。それで高校は金沢市立工業高校の建築学科に入学して、金沢工業大学でも建築学科で意匠を学びました。高校では「実務知識」を叩き込んでいただき、大学に入ってからはデザインなどの「イメージ」を膨らませていくような勉強をさせてもらいました。この道を選んでよかったと思うくらいに楽しかったのですが、やはり卒業設計や修士設計では、もうぶっ倒れるのではないかということも多々ありました(笑)。
「考えることが複雑にある、揉まれるテーマを選べ」
──では、“ぶっ倒れそう”になりながら作り上げたという卒業制作の話をうかがっていきたいと思います。まず日本銀行金沢支店跡地(以下日銀跡地)を題材にされたきっかけからお聞かせいただけますか。
中川:はい。当初はテーマを決めあぐねていて、地元の小学校校舎を題材にしようかと蜂谷先生に相談したのですが「もっと強く挑戦できるテーマにした方がいい」とおっしゃったんですね。「考える要素が複雑にあるテーマ、自分自身が揉まれるようなテーマを選びなさい」と。当時の僕はその意味をちゃんと理解できていなかったのですが「とりあえず金沢のまちを一回散歩してきたら」と。「ちなみにおすすめとしては日銀跡地があるよ」と、先生がさりげなくアドバイスをくださって。
そこでひとまず金沢の街を散歩してみることに。すると、やはり「日銀」の建物は“異質”というか、この場所における“特別なもの”だと改めて感じたんですね。「確かにこれはやりがいのある、今考えるべきテーマなのではないか」と思えてきたんです。
丸一日ベンチに座って、見えてきたもの
中川:それで日銀の建物とその周辺環境について調べ始めたのですが、まずは丸一日、日銀の向いにあるベンチに座り続けてみたんですね。
──丸一日ひたすら座る…!大学生ならではというか、もはや大学生にしかできない調査法といえそうですね…!
中川:しかも冬だったので、かなり寒かったです(笑)。けれど丸一日あの建物の前で過ごしてみたら、いくつか見えてきたことがあって。
中川:まず一つは、“風景”としてこの建物が街において果たしてきた役割。仮に、日銀の建物がなくなった風景を想像してみたのですが、このバス停で過ごす時間の“味わい”のようなものが半減するなと。
建物自体は有形文化財に登録されているようなものではないし、日銀という機能が抜けてしまった後はいよいよ意味のないものになる。けれど「景色としてあの場にあること」の重要性というか、あの石壁がなくなってしまうと、毎日ここを通ってきた人たちにとって「何か大切なもの」がぽっかり抜けてしまうのではないか、というのが率直に感じたことでした。
──確かに。“街としての品”というか“フォーマルな空気感”のようなものを、日銀の建物が醸していた部分はありますよね。それで卒業制作でも、外観を活かした「リノベーションありき」の案にされたと。
中川:はい。このファサードは活かしたいと考えました。建物を残せば「なぜ残したか」が問われるし、壊したら壊したで「なぜ残さなかったか」が問われます。だからこそ自分の中で“腹落ちする理由”を探して、丸一日建物を眺めていたという部分もありました。
「金沢らしい意匠」ではなく
「金沢のやり方」に準ずる
中川:また日銀が面している大通りは「百万石通り」とも呼ばれていて、金沢の中心部でありながら「金沢らしさ」のようなものが感じられないことにも課題を感じました。百万石通りの両サイドは「近代的都市景観創出区域」に指定されているので、事業発展やビジネスに注力するエリアではあるのですが、だからといって「街並みを考慮しなくても良い」という免罪符にはならないはずです。
とはいえ「金沢らしさを一つの建物で体現する」なんてそもそも無理のある話で。これまでの何百年の積み重ねがあり、それは数えきれない建築物も含め、それらの総体として「まちのイメージ」ができあがるのであって、「この建物=この街らしい」なんてありえません。けれど「金沢という街が辿ってきた歴史に準ずる」「金沢のやり方に従う」ということはできるのではないかと思ったんですね。“建物の魂”というか、“まちの魂”みたいなものの「痕跡をのこす」というやり方が、金沢らしい振る舞いなのではないかと僕は考えました。
歴史のレイヤー、その“端緒”に触れられるように
──「意匠」として表現するのではなく、「手法」として“金沢らしさ”を取り入れるというのは面白いですね。抽象的な概念として練り混ぜた「金沢らしさ」ではなく、なるべくそのままの「端緒」に触れられるように残すと。
中川:はい。水野一郎先生がよくおっしゃっている“ミルフィーユ都市(※)”の考え方にも近いのかなと。なるべく歴史のレイヤーを、建物としてそのままに体現したいと思いました。
金沢というまち自体がそうであると共に、日銀跡地だけを見ても、昭和、明治、江戸ー‥さらにもっと昔の歴史にまで触れられる“痕跡”が随所に残っているんです。
(※)ミルフィーユ都市…都市を“同じ場所に異なる時代・機能・記憶が層のように重なっている存在”として捉える比喩的な表現。
中川:例えば、日銀跡地は金沢最古の神社といわれる石浦山王社の跡地といわれており、ここに植わっていたタブノキは樹齢約500年とみられる立派なものです。また藩祖・前田利家の妻「まつ」の生家もかつてこの場所にあり、つまり代々の由緒ある場所なんですね。
また旧日銀店舗の建築にも、列柱や石壁など明治時代に日本に入ってきた“西洋建築の遺伝子”を見ることができます。そして卒業制作では、建物西側を街を眺められるテラスにしているのですが、これだけの高低差があるのも、かつてここが城下町の「外堀」であったという地理的な条件があるからなんです。
“ブラックボックスな経済のエンジン”から
“オープンスペースな市民活動のエンジン”へ
──外堀だったんですね!武家屋敷の黒瓦も見下ろせる金沢らしい風景で、すごく眺めがいいですよね。けれどこの一帯はオフィスビルが多いため、普段はビルに出入りできる人しか見られなくてもったいないなとも思っていました。ちなみにこのビルの運営主体はどのように考えていたんですか?
中川:公共的なオープンなスペースとして考えています。オフィスビルや商業施設など「誰かが占有する空間」はすでにあの通りに溢れていてて、その結果訪れる人も限定的になり、空室が増えていたりと課題も見えてきています。
だからこそのアンチテーゼというか、その逆をいくことをしないといけないなと。日銀自体、元々は一般の人は立ち入れない“ブラックボックス”でしたが、同時に経済の“エンジン”でもあった。その場と建物を踏襲しつつも、真逆の“オープンな空間”に作り替えることで、今度は“市民活動のエンジン”としての役割を果たせないかと考えました。
雨天時にも利用できる、屋根付き大規模空間
──ではその空間の提案内容について教えていただけますか。
中川:はい。まず新しく敷地に付与する機能として、雨天時にも利用できる「大規模な屋根付き空間」を考えました。キャパシティに制限のある「もてなしドーム」や、悪天候での延期などのリスクがある「しいのき緑地」などに代わる空間が金沢にも必要ではないかと。
その成功例として、富山市の「グランドプラザ」も視察に行きました。ここでは常に人が滞留していて、実際に施設利用の予約カレンダーは当時2年先まで埋まっていました。こういう場であれば、雪国であっても人が集まるという実例ではないかなと。
街のテーマによって “戦略”も変わる
──富山のグランドプラザはガラス張りの完全な新築空間ですが、こちらの提案は建物の外壁など「残すものは残す」という手法をとっているのも、金沢らしいですね。
中川:富山は“スマートシティー化”に大きく舵を切っているので、より利便性の高い新しいものを作っていくという方針があっていると思うのですが、金沢には金沢のテーマがあると思います。そこは街によって戦略は変わると思いますね。
グランドプラザで時間を過ごしていて感じたことが、何だか「見られてる感」があるなと。僕が目指す「用もなく立ち寄れるオープンな形態」ではあるのですが、吹き抜け空間が高層の商業施設と駐車場に隣接しているために、ベンチに座っていても、何だか“視線”のようなものが気になってしまい…。
人が滞留する空間って、「ただ広い空間」じゃないと思うんですね。座れたり、壁や柱があって篭れたりー‥なのでオープンな空間であると同時に、訪れる人の目的に合わせて“空間を棲み分けて”設計していく必要があると感じました。
身体的に居心地が良い
多様な“選択肢”がある空間であること
──大学生ならではの長時間滞在戦法がここでも(笑)!実際に自分で体感するというリサーチを重視されているんですね。
中川:やはり“身体スケールでの居心地の良さ”のようなものは、大事にしたいと思っています。どんなにコンセプトが良くても「何となく居心地が悪い」と、結局は人が寄りつかない空間になってしまうと思うので。
──では「空間の棲み分け」はどのように考えられたのでしょう?
中川:日銀の建物は「高さ」と、表裏での「眺望の違い」もあるので、これを上手く利用しながら「選択肢」のある空間を設計したいと思いました。
例えば、東側はバス停に面しているので、バスを待つ人がちょっと雨宿りや時間潰しにいられる空間に。また、座りながらおしゃべりができたり、軽く食事を取れたり、ビジネス街にあるので一定の時間パソコン作業ができたりー‥。
つまり「ちょっと立ち寄る場所」にも選択肢があるといいし、その過ごし方についてくる「価値」ー‥バスに乗れる、街並みが見れる、日差しを避けられる、ちょっと音を遮れるー‥といったようなものが提供できたら良いなと。
区切らず分節し、緩やかに繋がり合う
中川:中心にあるアリーナも、高低差のある空間を上手くデザインすることで先ほどの「見る/見られる」の関係も上手く利用することができているのではないかと。
例えば金沢マラソンや百万石祭りのような大きなイベントの時は、奥まで含めて全体を使えばいいし、規模が小さい場合は手前だけ、奥だけといった使い方もできる。そうすると、片方でイベントをやりながら、もう片方は準備中にしたり、別の団体が同時に使ったりもできるんですよね。単一の空間で一つのイベントをやるより、舞台が二つある方が使い方の幅が広がると思うんです。
例えば片方がマルシェ、もう片方が古着イベントだった場合、真ん中の空間は、買ったものを見せ合ったり、集まって食べたりする場所になる。すると互いのイベントを間接的に知ることもできて、人の動きや興味が自然につながっていくのではないかと。段差についても、あえて平らな場所と段差のある場所を複数つくって、空間をゆるく分ける。せっかくある高低差を活かすなら、こういう使い方が一番いいんじゃないかと考えました。
市民が持つ力を、もっと街の力に
──本当に面白いアイディアですよね。なんというか、こういった素晴らしいアイディアを市民が持っているというところや、また市民ベースで議論する土壌があるのも金沢らしいところだというか。
中川:本当にそうで、金沢市民の意識の高さには僕も驚かされています。例えば僕の卒業制作についても「建築」と直接関係のない方々も真剣に聞いてくださって、かつ鋭い質問をくださる。みなさん歴史や文化への素養が高く、こちらも下手なことは絶対言えないと、いつも緊張しながらお話しています(笑)。
──社会人になった今、改めて自分の卒業制作を見て感じることはありますか。
中川:そうですね…やっぱり「そうやりたいのは分かるけど、そう簡単にはいかんぞ」とは自分に言いたいです(笑)。当時は自分が思い描いたものをそのまま形にしていますが、実際には法律や素材・工法など様々な制限があります。でも逆にいえば、今は「形を決める根拠が増えた」ということでもあって。「制限」でもあるけれど、同時に「手引き」にもなっている感覚はあります。
あと、これは学生時代から思っていて叶わなかったことなのですが、金庫など「日銀」だからこそ持っている内部空間の質、つまり“日銀らしさ”をもっと設計に生かしたかったなと。当時は警備上の理由等で、本当の銀行内部は見学することができなかったので悔やまれます。また意匠としても古いものに“金継ぎ”するような美しさや考え方もあったのではないかー‥など、思うことは多々ありますが、みなさんの意見をいただきながら、どんどん“青写真”になっているというか、今もブラッシュアップし続けてられていることはありがたいことだと思っています。
囲い込まずに“ひらく”こと
「もっと良くなる可能性」を逃さない
──今もアップデートされているとのことですが、「自分の案がそのまま通ってほしい」という感じではないんですね。そこは浦建築研究所のスタンスに通ずるような。
中川:ああ、そうかもしれないですね。そこは入社してから山岸さん(意匠部門上司)に何度も叩き直していただいたところだと思います。僕も入社当時は、学生あがりの“自己顕示欲”や“承認欲求の塊”みたいなものだったので(笑)「自分のアイディアが通ってほしい」と思ってました。
けれど山岸さんが常におしゃっていたのは「設計に携わる“チーム全体”として、より良い提案をする」ということ。つまり「何のために設計しているのか」ということなんだと思うんです。「自分の案」に固執して囲い込んでしまうと、「もっとよくなる可能性」を見落としてしまうことになる。それって「良い建築」をつくる上ではリスクでしかないわけで。先輩方の姿勢からは「良い建築をつくる」ことへのプライドというか、もはや執念のようなものを感じています。
なので、否定される恥ずかしさなんて二の次で自案を押し出していく図太さと、より良い方向があれば潔く改める素直さと。少なくともこの二つを持ち合わせていないと、浦建築研究所のスタッフとして設計には臨めないのだなと感じました。
自分はまだまだ、新しい仕事に入る度に面食らっている毎日で(笑)。特に浦建築は手がける案件が本当に幅広いので、その都度一からの勉強が必要になります。でも「建築」というものを一人前にプロデュースできるようになるためには、その全てを通っていないといけません。痛い目にも遭いながら、その一つ一つを自分の血肉にしていけたらと思っています。
(取材:2025年12月)